青年海外協力隊の実際の活動とは?~タイ国 理学療法士~ PTの働くシリーズVol.5

数回に渡り青年海外協力隊のことをご紹介してきましたが、今回は理学療法士の協力隊としての実際の活動をご紹介します。

私は2012年9月から2014年9月まで、東南アジアのタイで活動していました。帰国して1年2ヶ月、時々タイの生活が恋しくなることもある今日この頃です。手前味噌で恐縮ですが本日は私の青年海外協力隊の2年間の活動をご紹介します。

異文化に飛び込む

タイは日本から飛行機で約5~6時間、東南アジアの中心に位置する熱帯の国です。

年間の平均気温は約29℃で、首都バンコクでは一番暑い4月の平均気温が35℃、一番涼しい12月の平均気温が17℃です。人口は約6000万人、公用語はタイ語です。国民は敬虔な仏教徒が多くとても王室を尊敬しています。タイは東南アジアの中でも比較的発展しており中進国と言われています。

首都バンコクは高架鉄道が走り、高層ビルが立ち並びます。

しかし、一歩は裏に入るとスラム街がある、貧富の差が大きい国です。バンコクに到着した当初は、熱気と東南アジア独特の街の匂いと雰囲気に圧倒されました。アジア人だけでなく様々な人種が街を歩いており、初めての海外生活はとても刺激的でした。

今から2年間この土地で生活するのかと思うと、不安と興奮が複雑に入り混じる何とも言えない心境でした。そんな状況の中タイ生活が始まりました。

活動開始

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私は首都バンコク郊外にあるタイの労災リハビリテーションセンター(以下,配属先)で、現地の理学療法士に対し技術支援と入所者に理学療法を提供することを目的に活動しました。

現地での1ヵ月の語学訓練後、タイ労災リハビリテーションセンターに配属されました。配属先はボランティアの受け入れ経験があり、私で5人目でしたが歓迎してくれました。初日はまったくタイ語が通じず苦労したのを思い出します。

タイ労災リハビリテーションセンターは、30年前に日本の無償資金協力(日本が無償でお金を貸して開発途上国などを支援すること)で建設され、同時に技術プロジェクトが行われたJICAと関係が深い施設です。同僚の理学療法士は(以下,同僚PT)は4名(23年目、22年目、12年目、1年目)、OTも2名とタイ国内ではリハビリテーションスタッフは充実していました。

言葉の壁と遣り甲斐

活動を開始して、まずは悩んだのは言葉でした。同僚PTや学生に患者の治療方法についてタイ語で質問されても意味が解りません。質問の意味が解っても今度はうまく考えを言葉に出来ません。テキストや写真を用いたり、ボディーランゲージや拙い英語とタイ語で必死にコミュニケーションを取ろうとしたりしました。

しかし、それ以上に悩んだのは配属先の活動にやり甲斐を感じられなかったことでした。配属先はソフト面もハード面も整っており、日本の支援が必要なのか、日本人のボランティアが必要なのか思い悩みました。また、私が活動を開始した時期はタイの大洪水のあとで入所者が少ない時期でした。

そのため、私の担当患者はおらず、それ以外の仕事もほとんどありませんでした。その様な状況のため私は同僚PTを見学したり本を読んだりする時間がほとんで活動らしい活動が出来ずに非常に無力感を感じる毎日でした。この様な生活は約半年ぐらい続きました。

憤りの日々

同僚PTは、患者の治療をほとんど学生に任せることが多く、治療を行っても物理療法が中心で、運動療法は自主トレーニングを提供することが大半でした。同僚PTは患者に介入する時間が短く、適切に理学療法が施されていませんでした。

さらに配属先ではイベントが開催されることが多く、頻回にリハビリの時間が潰れていました。ただでさえ患者は少ないのに私は思うように活動が出来ませんでした。そんな中、現状を改善したいと思い、同僚PTとボランティアの活動計画について協議を行いました。しかし、同僚PTからの要望は「日本語を教えて欲しい」というものでした。理学療法に関することではなく、要望は‘日本語教育’でした。

何度も配属先のリハビリテーションや理学療法の課題や問題点について聞いても答えてくれませんでした。返ってくる答えは日本語教育のみでした。私は非常に憤りました。配属先にはボランティアを要請した理由に明確な目的はありませんでした。私は理想を持ってタイに来たのに、ボランティアに対しての期待が低いことに失望しました。

理想と現実

私はこの現実と理想のギャップにとても悩みました。この頃は活動が充実せずに何をやっても面白くありませんでした。先輩や同期隊員に愚痴ばかり言っていました。そんなある日、いつもの様に先輩隊員に愚痴をこぼしていると「みんな一緒だよ。みんな悩んでいるよ。どんな状況でも活動するのがボランティアだろ!?」と一括され、私は愕然としました。

私は自分だけが悩んでいると思い、配属先を理解しようとせずに、自分の理想を押し付けていました。また、自分の無力を棚に上げ、活動が上手く行かないことを全て配属先の姿勢や意欲のせいにし、積極的な行動を起こしていませんでした。

つまり、ボランティアの一番大切な要素である自主性に欠けていました。そもそも突然よそ者の若い理学療法士が来て、事情も知らずに偉そうに話をしても、聞いてくれる訳がありません。それから私は考え直し、どんなことでも受け入れることにしました。

要望である日本語教育から始め、配属先のイベントでお寿司作りなどを行い、理学療法以外のことに積極的に参画しました。これがきっかけで自分の殻を破ることが出来ました。その後、配属先の施設の改修も済んだことで、少しずつ入所者が増え、私の担当患者も増えました。理学療法士としての活動が活発となり、障害者スポーツなどの様々な活動に積極的に参加することで活動が徐々に充実してきました。

活動の一年目は四苦八苦の連続でしたが、次第に文化や価値観の違いに慣れていきました。タイで生活を始めて1年経つころには、配属先での活動にやり甲斐を感じられるようになりました。理想と現実のギャップに悩み苦み、それを受け入れた一年目でした。

配属先の現状に応じた活動

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2年目は、言語が上達し異文化に慣れたことでコミュニケーションがスムーズになり、充実した活動が出来ました。私は‘タイの現状に応じた技術支援’をモットーに活動しました。日本の理学療法を押し付けるのではなく、あくまでも日本の理学療法を知ってもらい、その上でタイに合うものを取り入れて欲しい。この思いで活動しました。

しかし、ボランティアの活動にあまり興味が無い同僚PT。どうすれば興味を持ってもらえるか。認めてもらえるか。これを考えながら大きく2つのことを行いました。1つ目は「勉強会で日本の理学療法を紹介する」、2つ目は、「実際の臨床でアプローチを紹介する」です。

幸にも月一回の会議の場で、勉強会を行わせてもらえる機会を得られました。しかし、タイ語で上手く説明するのは困難です。勉強会のスライドをタイ人の興味を引くような動画や写真を多くし、内容は簡素に、時間は長くならないようにしました。このように工夫することで興味を持って聞いてもらえることが出来ました。

そして、勉強会の内容を基に、実際に患者にアプローチを行いました。具体例は装具療法です。対麻痺患者に短下肢装具を作成し、歩行練習を行いました。その結果、屋外歩行自立を獲得し、改善した症例として紹介出来ました。他にも脊髄損傷患者の車椅子の操縦方法など、幾つかのことを紹介することが出来ました。

そして、ボランティア活動の集大成としてケーススタディーをワークショップ形式で、タイ人セラピストと日本人セラピストと合同で行いました。同僚PT達に日本のセラピストの考え方を知ってもらい、私の紹介したアプローチに対しての興味や理解も深まりました。また、タイと日本のリハビリテーションや理学療法を比較し、日本の良い所や悪い所を知ることが出来ました。このように様々なことに挑戦させてもらい充実した2年目となりました。

まとめ

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2年間の活動で配属先に大きな成果を残せた訳ではありませんでした。しかし、配属先の理学療法は私の着任時より僅かながら改善したと思います。活動後半には同僚から片麻痺になった同僚の祖父をリハビリして欲しいと頼まれました。

当初はタイ語が下手で興味も持ってもらえなかったのに、同僚に家族のリハビリを頼まれたことは、理学療法士として認めてもらえ嬉しかったです。私は業務の合間に治療を行い、その祖父は車椅子レベルから杖歩行が可能な状態となり、同僚も喜んでくれ期待に応えることが出来ました。当初は言葉や異文化に四苦八苦の連続で一時は日本に帰ろうかとも思いましたが、様々な人に助けられ、異文化を体験し受け入れることで人間的に成長出来ました。この2年間では外国語の習得や多角的な視点、臨機応変な対応力を養うことが出来ました。

また、日本の医療やリハビリテーションを客観的に捉えることが出来るようになり、理学療法士として広い視野を持つことが出来ました。これは青年海外協力隊でしか得られないと思います。協力隊の2年間は一生の宝です。

ABOUTこの記事をかいた人

川副泰祐

陸上自衛隊退職後、理学療法士養成校に入学。卒業後はリハビリテーション病院で勤務し、2012年9月よりJICA青年海外協力隊としてタイ国に赴任。バンコク近郊のパトゥンターニー県労災リハビリテーションセンターに理学療法士として活動。帰国後、神奈川県内の病院で勤務中。長崎県長崎市出身。1982年12月生まれ。